なんだこれは!!
突然、鬼が憑いたかのごとく生ギターの音が激しく鳴り響き、喉もはり裂けよと絶唱する一人の男がステージの上に現れたとき、誰もが息をのんだ。全員が一瞬にして男に釘付けになる。最前列で男の登場を今かと待ち構えていた者も、脱衣所でビールを片手に談笑していた者たちも、口をあけてただ呆然としている。男は腕もちぎれんばかりにギターをハゲシク掻き鳴らし続けている。ブルースのようでもありながらクラシックやフラメンコの奏法にも近い。そしてハーモニカのテクニックが尋常ではない。男は絶叫する。
オレは不滅の男ォォォォッ!これが遠藤賢司───。やがて会場のあちこちから興奮に満ちたため息と笑い声が聞こえ始める。すげぇ。凄すぎて笑うしかないのである。これは“美しいもの”や“本物”を前にしたときの人間の正しい反応である。
7月20日(木)18時。風呂ロックFinal「弁天湯VS遠藤賢司」は衝撃的なスタートを切った。ちなみに当日はエンケンさん直伝レシピを忠実に再現したピラミッドカレーも用意され、ビールのほろ酔いと銭湯の心地よい空間のなかで絶品カレーライスを頬ばり、昔話に花を咲かせるファンもちらほらと。しかし『niyago』・『満足できるかな』世代の往年のファンにとっても、フォークロックの大御所を知らない若い世代にとっても、一体誰がこの現在のエンケンを想像できただろうか。ライブはオープニングの「不滅の男」や「踊ろよベイビー」などのハードなナンバーから、名曲「カレーライス」「歓喜の歌」「地下鉄の駅へと急ぐ夏」まで、静と動が渾然一体となって爆進していく。時を経て、その曲のどれもがオリジナルよりさらに激しく、そしてさらに優しい。───絶叫で叫び、ささやきで叫ぶ。収縮と爆発を繰り返す感情のビッグバン。この気迫はどこからやって来るのか。われわれは彼が放ち続ける巨大なエネルギーに圧倒されっぱなしであった。
エンケンさんは波乱万丈の人である。自らを“純音楽家”と呼び、“ただひたすらと俺の心にまっすぐな音と言葉で”自らの音楽を変態〈メタモルフォーゼ〉してきた彼には、ジャンルという枠組みなど無用である。時にはその変態〈メタモルフォーゼ〉が凡人の理解を超えたこともあっただろう。根津の四畳半に暮らした時代もあったという(しかしその時期にも『エンケンの四畳半ロック』という名盤を産み出している)。すべては音楽に対する純粋な、そして尽きることのない情熱が導いたことである。そんな人間の語る言葉が面白くないはずがない。熱奏のあいだに素朴な言葉で語られるMCは、話題がナカタからコイズミにまで拡がり、エンケンさんの目線と人柄を表していて楽しい。昼ドラの『我輩は主婦である』が好きだという言葉をきいたエンケンファンの一人である脚本家本人は、その時どんな気持ちになっただろう。
“エンケンのギターの凄さは右手にある”と言った人がいた。ライブは「夜汽車のブルース」で最高潮に達する。それはもはやファーストアルバムで聴くような完成されたアレンジなどではない。疾走感あふれるリフを狂わんばかりに速くハゲシク掻き鳴らす(というよりは打ち鳴らす)その様は、もうもうと黒煙を上げて最高速度で迫りくる重機関車そのものである。叫びはすでにハードコアの域に達している。汽笛を鳴らしてグルーブの線路をひた走りに走りまくる。ただひとつの情熱以外はすべて脱ぎ捨て、暴走夜汽車はいったいどこまで走るのか?名曲がさらなる名曲へと生まれ変わる。───破壊と再生の変体〈メタモルフォーゼ〉。年を重ねるごとに溢れ出す情熱。その魂は19世紀末にスペインに生まれたひとりの芸術家とどこか似ている。そう気づいた時には、男の姿はステージから消えていた。
会場ではアンコールに向けて、あのケロリンの桶が配られている。観客は手に手に桶を鳴らして男がふたたび現れることを心待ちにしている。───楽しいことが好きなエンケンさん。実はこの時エレキギターを抱えて弁天湯の裏手を全速力で走っていたのだ!弁天湯に鳴り響く桶の音と拍手がひとつになった時、男の奏でるギターの爆音がどこからともなく近づいてくる。ステージには誰もいない。その瞬間どよめきが起こり、後方の脱衣所の縁側からアンプを背負ったエンケンさんが突如として現れ、観客のあいだをぬって「東京ワッショイ」を絶唱する。
そして風呂ロック最後の曲は「夢よ叫べ」。
お前がやらなきゃ あの夢は 二度とは瞬かぬ
そうさ そんな夢に 負けるな友よ 夢よ叫べ!!
むき出しの叫びでわれわれに魂をぶつけて、男はステージを去っていく。ギターを1本マサカリのようにかついで。四股を踏んで、雄叫びをあげて。
後には、激しい字体で書かれた「弁天湯VS遠藤賢司」の横断幕と、富士山の銭湯画だけが残っていた。ライブレポート/浅見昌弘