LIVE REPORT

知久寿

昔、オババに教わりました。古いモノには“神様”が棲んでいますよって。
ただ不気味、というのではなく、ちょっとコワイけれど、どこかでそれを畏れ敬っているというか。
時を重ねたモノには、何やら得体の知れないあやしさが宿っています。
午後二時を打つ柱時計。日なたの化け猫。
光と闇。幻想と現実。生きものと物自体。時間があらゆる境い目を削りとっていくのでしょうか。
そういえばオババの顔だって、笑っているのかそうでないのか、ひと目ではわからなかったな。

60年の歴史がある弁天湯にも間違いなく“神様”は棲んでいて、そこかしこにその気配を感じることができます。脱衣所と洗い場の味わい深い天井や飾り窓にはもちろん(パーマ式の被るドライヤー!!)、裏手の年代物の計器類と木目の浮き出た大釜のフタの上にも。そして、さらに熱利用の物干し竿の下をくぐって奥の細い階段(ミニ石鹸や安全剃刀の在庫が置かれていたりする)をギシギシのぼっていくと、‥‥‥あッ、ちょっとここはもうキテますよ。エート、開かずの間というのではないのですが、今は使われていないその部屋には、ソノ何と申しましょうか、長い間風呂を焚くことを生業にした人のヒトスジの汗というか、人間の一途なジョウネンのようなものが、当時のままのタタミやフスマとともにムキダシにそこにあって、とにかくわれわれが気やすく近づいてはならないタダナラヌ空気が流れている。
そんなココロのスイッチで弁天湯を眺めていると、昔ながらの楼閣のような建物全体に“神様”が息づいて今にも動き出しそうで、同じ銭湯でも、「公衆浴場」というより「湯屋」といったほうがふさわしいですね、ここは。

3月30日(木)。今回の「風呂ロックVol.3」に出演してくださったのは、知久寿焼さん。“神様”のココロを持ったヒト。弁天湯の「湯屋」的な雰囲気が、これ以上ないくらい見事にハマるヒトです。
前歯が一本ない知久さん。ビールが大好きな知久さん。はにかんでチョット恥ずかしそうに挨拶をする知久さん。当日、弁天湯まで自転車をこいでやって来た知久さん。
誤解を恐れずに言えば───、 知久さんは“人ならぬ”感じがする。
笑うとイタズラな少年の表情。キラキラと水のように澄みわたった目になって、そんな目でみつめられると、自分の弱さも汚さもタヨリナサもすべて見透かされてしまいそうでコチラハココロオダヤカではない。
でも、きっと知久さんの目にはいつも、もっと遠くにあって、もっと大きなものが見えているんでしょうね。ちいさな私やコドクな私たちの世界のありかたを超えて、しっかりとつながっているモノが───。

ギターとウクレレの不思議なメロディーにのせて、独特な歌声で歌われる知久さんの詩の世界は、「死」や「さびしさ」を予感させるようなネガティブな言葉が数多く使われているのにもかかわらず、限りなくあたたかい。例えば、誰もいなくなった夕闇せまる校庭にただひとりポツンと取り残されて、いまにも胸がつぶれそうなほどせつないのに、どこか、ずっと遠い所から自分がここにいることを見続けてくれている何かを感じるような。
「湯屋」の裏手の赤と緑のスイッチランプと裸電球の下でバケツに水を汲んでいると、そんな知久さんの歌がきこえてきて、いま正直に言っちゃうと、そのとき自分は本気で泣いてしまいました。この弁天湯の、この吉祥寺の、この東京の、この日本の、この地球の、この太陽系の、この銀河のこの宇宙のこの空間のこの時間の、いまここにいることがただ本当にうれしくて(←ちょっとヤバイかも)。
オープニングアクトのヌッカ君が言ってました(ヌッカ君も素敵でしたよ)。知久さんは音を響かせるために大きく鳴らすのではなく、音をひとつひとつ集めてみんなに聴かせるのだと。だから会場のお客さんの耳は全部まっすぐ知久さんの歌に向けられていて、とても静か。今回の会場は女湯。男湯が太陽だとしたら、女湯は月の光。
おだやかでいとおしい弁天湯の夜。
知久さん、また聴かせてください。その目で見たやさしいあなたの世界を。

さて、次回5月4日はついに登場!曽我部さんです。ロック強化月間突入!!ライブレポート/浅見昌弘