LIVE REPORT

朝崎郁恵

人はなぜ想いを歌にのせて歌うことを覚えたのだろう。朝崎郁恵の歌を聴くとそんな原初的な問いを思い浮かべずにはいられない。
亜熱帯気候の奄美・沖縄の島々へ行くと、まるで自分が時間の外に取り残されたような錯覚がおとずれる瞬間がある。風が止んだ真夏の午後。南の島特有のつき刺すような強烈な陽光がサンゴ石灰の地面に照り返して、目の前が真っ白になる。人気のない道端に真紅のアカバナーだけが色づいている。この道を歩いていけばどこにたどり着くのか。いま自分のいるこの場所は、果たして現実の世界なのか過去の風景の中なのか。彼女の歌はそんな夢と現のあいだに耳の奥にひびいて離れない遠い記憶のようだ。空気のように透明なのではない。あくまで人間らしいそして素朴な歌声は、裏声や節回しなど奄美島唄の伝統的な技を駆使して、時にはささやくように時には叫びのように切々と、自由自在に感情を表現する。彼女の歌声にシンクロした者は、無意識のうちに抑えていたものが抑えきれずにあふれ出す直前の、あの圧倒的なせつなさに心をかき乱される。そして同時に、懐かしさにも似た温かい静けさが堰を切ってとめどなく拡がり、いつしかそれに満たされている。涙が流れるのである。彼女の島唄には喜びや悲しみといった人間の営みの中で生まれる感情の、時間を越えた最も普遍的な姿がある。まさに天才的唄者である。

弁天湯が笑っていた。7月6日(木)19時。“ハレの日の慶び”を歌う「今日ぬほこらしゃ」でスタートした「風呂ロックvol.7」には、島の夏祭りに迷い込んだような幻想的な雰囲気がただよっていた。かつてこんな空間を経験したことがあっただろうか。奄美の伝統的な衣装に身を包んだ朝崎さんのステージの華やかさと、会場に集った老若男女約220人の観客の熱気とともに目を惹くのが、キャンドルアーティストCandle JUNE による会場演出だ。美しさと機能性の微妙なバランスで配置された、色とりどり大小様々のキャンドル群は、もともと「神降ろし」の歌が原点とされる島唄のコンセプトを見事に表現している。ステージ上の“聖”と、唄を楽しみ酒を楽しむ我々の“俗”をつないで、ひとつの世界を作り上げている。この場から夏祭りの風景のような感覚を受け取るのも、彼の演出の巧みさによるところが大きいであろう。島唄と人との出会いを大切にする朝崎さんは、一曲一曲の歌について解説を交えてライブを進行する。「ありがとう」の言葉にも魂が込められる。喜びの歌とともに、奄美の島唄には悲しい曲調の歌も多い。直截的な歌詞こそないが、薩摩と琉球の2重支配に苦しんだ島の歴史が生み出した、人々の切実な叫びがそこにある。美しいピアノの旋律と太鼓、そして沖縄のものとは異なり、乾いたせつなげな音色を奏でる三線が、朝崎さんの島唄に色を添える。一曲ごとに時間と空間を超えて、観客は次第々々に島唄の世界に惹き込まれていく。ライブ終盤「豊年節」と「六調」の大カチャーシー大会で歌い踊り、熱気で膨れ上がった会場はついにひとつになる。しかし、何にもまして圧巻なのは、アンコール最後の「故郷」アカペラであった。会場全員による合唱。朝崎さんの歌声に観客ひとりひとりの歌声が重なり、荘厳な響きが生まれる。彼岸の道はひらいたか。その音楽はまるで、彼女の歌にみちびかれニライカナイへと漕ぎ出す魂たちへのレクイエムのようだ。

揺らめく炎、浮世の湯に咲く蓮の花。
ひと足はやい吉祥寺の夏祭りであった。

*ニライカナイ=我々の住むこの世界とは別の、もうひとつの神々の国、あるいは異境、理想郷。沖縄、奄美など南西諸島の信仰の最も基本的な概念。ライブレポート/浅見昌弘